こんにちは!
今回も前回に引き続き、イベントの裏側を紹介する記事です。
9月1日は防災の日!ということで、今回は僕が所属している消防団の活動について触れつつ、
9月18日・19日で行われた流鏑馬祭りに併せて行われる「御神楽」という伝統を実際に経験した記録を書きたいと思います。
ですので、「イベントの裏側を紹介する」と言っても、今回は実際に僕が富士吉田市消防第九分団のメンバーが行う「御神楽若衆」の一員として、御神楽を「笛」役で舞った(演奏した)体験記のような内容になっています。
僕は去年の11月から富士吉田市の消防団に入団しました。
消防団とは縁もゆかりもなく、なんなら去年の4月に移住してきて初めて“ちゃんと”知りました。
というのも、1995年に発生した阪神淡路大震災以降に注目を浴びた「共助」の考え方は知っていたし、「地域の安全は地域で守る」といったローカルな防災のあり方について勉強した記憶がありました。
しかし、実際に消防団や自主防災組織がどのような活動をしているのかは知りませんでした。
「共助」を重視する組織の中でも、消防団とは、自主防災組織よりも「公助」の色が強く、特別な訓練をしたり入団するには一定の条件を満たしていないといけない、など市町村との繋がりがより強いです。
例えば、消防団は自分たちでポンプ車を管理している場合が多く、それらは市町村から貸与されます。
そしてポンプ車の操法を訓練したりする義務があったりします。
しかし、構成されるメンバーは地域住民であり、ほとんど全員が日中は仕事をして、空いた時間や休みを取って消防活動に参加する、といった「二足のわらじ」で働いています。
一方で、年々参加する団員が減ってきているので、本来団員として認められる年齢以上の人も「非常勤団員」として活動に参加していい、という様に条件が緩くなってきています。実際、多くのことを非常勤団員に学びます。
さて、消防団の話はここまでにしておいて、自分が所属している中村の第九分団のメンバーの多くは、別の組織にも加入しています。
それが、9月18日〜19日に行われる「流鏑馬祭り」に合わせて結成される「御神楽若衆」と言う組織です。
この組織は消防団とは別に結成され、お祭りの時に御神楽を舞う、若い衆で構成された組織ですが、おそらく青年団の名残で、現在では消防団に所属しているメンバーが多く所属しています。
「御神楽若衆」は流鏑馬祭りの2週間前から笛、太鼓、踊り(獅子)の役割に分けられ、最初から順に初心者、中級者、上級者が担当します。
御神楽は主に厄除けのために行われる伝統舞踊で、家内安全や商売繁盛を祈願する儀式です。太鼓や笛の音に合わせて獅子が舞い、笛太鼓は歌も歌いながら、お祭り中に一軒一軒、地区の家や店舗を訪ねては舞い、御祝儀をいただきます。
中村地区の「御神楽若衆」は、伝統的に「弊の舞(へいのまい)」と「オヒャウ」と呼ばれる演目を練習し、舞います。
それでは早速、初めて「御神楽若衆」として舞った御神楽体験記をどうぞ。

…
『お疲れ様です。
御神楽の予定です
・御神楽
・日時:9月18日(木)7時30分集合
・日時:9月19日(金)8時集合
・場所:中村会館
・備考:朝ごはんはコンビニ飯出ます
よろしくお願いします。』
御神楽若衆のLINEグループに班長のエイジさんから連絡が入った。
1日目の集合は7時半である。僕は余裕を持って準備をして、私服で家を出た。
いつも中村会館へいく時は、消防団関係のため法被の着用が必須だが、今日は消防団ではなく御神楽若衆としての活動なので、私服である。
会館へ到着すると、コンビニで買った朝食がおよそ人数分部屋の中央に並べられている。
これもエイジさんが早朝にコンビニへ寄り、用意したものだ。
それ以外の空間は、着物やらステテコやら、いかにもお祭りらしい服装に着替えている人たちがいる。朝の7時半にも関わらず皆さん、テキパキ準備をしている。
普段着ないような服装になるため、先輩が後輩(僕含め)に着付けを手伝ったりしていた。
服装は、御神楽の役によって異なる。
笛さんは着物の上に法被を着て縄で縛り、ステテコを履く。太鼓さん法被を着て「股引(ももひき)」を履く。そして獅子は太鼓さんと同じ格好をして、獅子を被る。獅子の胴体に当たる部分は布でできており、それを獅子さんの体に巻きつけ、最後の端っこを尻尾のように後から少し出す。
準備ができた人たちは後輩団員の手伝いをしたり、朝食を食べたり、中にはビールの缶をプシュッと開けている人もいた。
準備ができると、まずはゾロゾロと近くの下宮小室浅間神社に向かった。
神社には流鏑馬祭りのために準備をしている馬主たちが集まっていた。
僕は去年、流鏑馬に参加し、神社の潔斎館で1週間過ごした。
それも不思議な経験だった。簡単にいうと、1週間に渡って神社の中にある「潔斎館」と呼ばれる小屋で、参加する男衆で生活をする。
毎朝早朝と夕方に馬の手入れと乗馬の練習があり、基本的に神社の外へ出てはならない。さらに女性との会話や四つ足の動物を食べることが禁じられている。
本祭の日には馬に乗りながら弓を放ち、馬の足跡を占人がみて、地域の1年間を占う。それが結構当たるらしく、毎年占いの結果が回覧板で回る。
中村の御神楽若衆は小室浅間神社の本堂へ入り、お祓いを受けて「下がりっ葉」と呼ばれる演目を舞った。
朝の静かな神社に響く太鼓と笛と鈴の音は、今日まで2週間に渡って会館の中で練習した時の音とは違った。

今日の出発地は小室浅間神社から。
僕は去年流鏑馬でお世話になった馬方たちに軽く挨拶をして「今年は御神楽出るんです〜」と伝えると、「裏切り者!」と愛を込めて言われた。
今日と明日で大体5人程度のグループが2手に別れ、一軒一軒家を訪ねて御神楽を舞う。
その際にお気持ちの御祝儀をいただく。
僕は笛を担当しつつ、御祝儀をいただくためのザルを持って回る。
家や店を訪ねる際に最初に声をかけるのが僕の役割である。
そしてお祝儀の金額に合わせて舞う項目が変わるため、お祝儀の金額を確認した上で演目名を太鼓さんに伝える。
中村御神楽若衆のメンバーは自分たちの地元を回るので、ほとんどの家について知っている。
たまに、留守にしている家もあり、「取りこぼし」として後から回るようにする。
僕が、「取りこぼしのところ、メモっときましょうか?」と尋ねると、「いや、全部覚えてるから大丈夫。」と返された。「家で覚えているっていうより、人で覚えてるから、どこの人から貰ってないなっていうのは大体覚えてられるんだよ。」と教えてくれた。
個人的にこれは驚いた。しかも本当に後から「取りこぼし」に行く時には漏れなく留守だった家を回っていたのだ。
しかし、中には「ここって誰もいないんだっけ。」とか「ここは引っ越した」などの更新されていない情報もありそうだった。
そして「ぶく」の家は御神楽を舞ってはいけない。ついでに言うならば、家を訪ねてすらいけないそうだ。
「ぶく」とは、1年間の間に親戚を亡くされた家庭である。つまり、メンバーはどの家が1年間の間に親戚を亡くしたかを大体把握している。もちろん、それ以外にも家の前に吊るされる「しめ縄」に「紙垂(しで)」がついていなければ、そこは訪ねてはいけない、という目印になる参考材料はあるが、ほとんどのメンバーは把握している。
前年度のことは知らないが、中村の地域に「ぶく」の家庭は案外多かった。高齢化が進み、「ぶく」の家庭が増えると、御神楽の出番はなくなり、さらに言うと御祝儀も減っていくのだろう。そもそも、人口減少で世帯数が減っていることは言うまでもないが。
それでも、御神楽を舞ってほしいという家庭は多い。しかも、御祝儀の金額も安くない。
多くの家庭が、御神楽が来ると子供達や家族を呼び出して、しっかりお獅子の前でお祓いを受けた。子供達は、厄除けのために獅子に頭を噛んでもらったりした。
現在でも獅子の持つ意味や御神楽に対する信仰心が伺えた。
もしかしたら一つの伝統的イベントとして、その風習が残っているだけで、御神楽の意味などは考えないのかもしれないが、地域の人たちがこうして一年に一回、御神楽のお祓いを受けることは「厄除け」や「家内安全、商売繁盛」など何かしら祈願をする機会になっている。
どういう形にせよ、御神楽を通して地域への愛着を育んでいるように思えた。さらに、御神楽を舞ったあとはほとんどと言っていいほど、メンバーが家の人や店の人と小話をする。
ある時は親戚で、ある時は同級生、さらに仕事仲間や仕事のお客さんだった。一軒一軒の家を回ることで、その家庭の安全を確認したり、情報の更新を行う機会としても機能していた。
何軒か回ってそろそろ慣れてきた時、2つの班が合流してメンバーがある家の前で止まって溜まり出した。
「次行かないのかな?」と思っていたら、家の方が机や椅子と共に料理や缶のお酒を家の前の歩道に出し始めた。メンバーはそれを手伝いながら、缶のお酒やお茶を他のメンバーに回していた。朝の10時だ。
「ほれ、馬場ちゃんも呼ばれて。」
もちろん、僕も350mlの缶ビールを「呼ばれた。」
「呼ばれる」とは、ここら辺の方言で「召し上がる」とか「招待される」という意味で、お茶やご飯をご馳走する時に使われる。もちろん、この場合はお酒とおつまみの料理だった。
これが、お祭りか!

このように、長い間御神楽の伝統を続けている中村の御神楽若衆は、地域の先輩やメンバーの親戚などから「お呼ばれ」いただくことがある。
いわゆる休憩時間だ。ほとんどの場合がお酒をいただくが、他にもお菓子や手作りの料理が出る。
おでんやきゅうりの塩漬け、フルーツやつまみのお菓子が大量に出てくる。メンバーは、お呼ばれした家の方とお酒を飲みながら会話を楽しみ、また次の家へと出発する。

こうして1日目は中村地区の家や店舗約300軒のうち、ほとんどの家を回った。店舗は2日目の夜にとっておき、取りこぼした家以外は全部回った。
疲労困憊のメンバーは、「焼き鳥びんど」で打ち上げをしたが、やはり疲れていた。一日中歩き回り、酒を飲み、笛や太鼓を一生懸命演奏する。
夜のそんなに遅くない時間に解散したが、祭りはまだ終わらない。
2日目は8時半に中村会館集合になった。
今日は、昨日取りこぼしたお家を回り、ひとまず休憩してから夜の店舗へと繰り出す予定だ。
午前中は、昨晩の疲れを引きづりながら再び2班に別れて家を回りはじめた。
相変わらずメンバーの数人は、朝の9時から、昨日の「お呼ばれ」で頂いた缶ビールをプシュっとさせていた。中村の若衆は祭りに抜かりがない。
昨日よりは疲れていたが、天気が秋っぽくなり始め、涼しい日だったので思ったより楽に笛を吹けた。今日は流鏑馬の馬場通りで馬が走る日だ。
いつもより下吉田に人が集まり、外国人観光客も集まっていた。僕は英語ができるので、店舗内で御神楽を舞った際に、外国人観光客の眼差しを感じたら額を噛んだり、写真撮影をしてあげたりした。すると、もれなく御祝儀をいただけた。
中には、イギリスポンドで払ったり、オーストラリアドルで支払ったりした。御祝儀を集めるザルの中が、ややインターナショナルになった。
午後2時頃には「取りこぼし」の家を全て回ることができ、夜の8時まで休憩時間になった。
夜の8時には、西裏の店舗が開店し始めるため、それに合わせてまた御神楽は出るのだ。
ほとんどのメンバーが酒を飲んでいるので、中村会館で昼寝をとったり、すぐ近くの「富楽時」へ風呂を浴びに行ったりした。
僕は家がすぐ近くにあるので、昼寝を少ししてから流鏑馬の祭りへ様子を見に行った。馬は終わったらしく、屋台が地元の子供達や外国人観光客で賑わっていた。
吉田に来るまでは祭りと言えば夏をイメージしていたが、吉田の流鏑馬祭りは地域の安全祈願や収穫を祝うための祭りで、富士山の山終いの秋に行われる。
暑苦しい夏祭りとはことなり、また違った風情のある雰囲気が流鏑馬祭りにはある。
8時に再集合するため中村会館へ到着すると、西裏に続く路地から、顔が真っ赤なメンバーが4、5人ゾロゾロと集まってきた。繰り返しになるが、中村の若衆は祭りに抜かりがない。
さて、準備を済ませると、常々「御神楽の本番」と言われてきた夜の店で舞うために、中村会館を出発した。
まずは「リバーサイド通り」と呼ばれる、月江寺方面の飲み屋エリアに突入した。お店の内側から賑やかな声が聞こえてくるところを、ザルを持って突入するのは流石に少し緊張した。「馬場ちゃんのザルにかかってるよ。」と言われていたので、できるだけ元気よく「こんばんは!地元の御神楽です!」と叫びながら店に入った。
地元がない僕にとって「地元の」と言えるのは、なんだか嬉しかった。
西裏のお店には様々な店があり、キャバクラやガールズバーのような店の中でも外国人が営んでいたり、若い女性が働いていたり、ママみたいな人が仕切っているようなところもあった。それぞれが個性的な空間で、御神楽として少しお邪魔しているくらいの距離感だからこそ楽しめた。
中には嫌がって断るところもあったが、ほとんどの店が楽しく歓迎してくれた。夜の店は、お客さんもお酒が入って盛り上がっているので、御祝儀をバンバンくれる人もいた。そういうお客さんはいわゆる吉田の「おっちゃんち」だったのだが、もしかすると多くの方が若い頃に青年団や若衆として御神楽をしたりしたのかもしれない。
西裏にはそういう地域の温かさがある。
夜の店を巡るのは夜の12時を越してもまだ続いた。途中でもちろんたくさんの「お呼ばれ」があり、ダウンしているメンバーもいた。
僕も、昼間とは比べ物にならないくらいの量の御祝儀をザルに入れていたので両腕をヒリヒリさせていた。それでも、祭りの空気感から来るアドレナリンでなんとか乗り越えた。
夜中の一時前に中村会館に集合して、片付けをしてから解散した。あまりにあっさりしていたが、メンバーは全員疲労困憊だった。
とても印象的だったのが、非常勤のメンバーが15年ぶりに御神楽を手伝いにきてくれたのだが、一言「楽しかったなぁ」とため息混じりに言っていたのを聞いて、中村の若衆は愛が深いな、と思った。
…
そんなことで、僕の初めての御神楽体験を記したのですが、やはりとっても面白い文化でした。
中村という地域の地縁的な繋がりや、西裏という歓楽街の文化、そして祭事と祭りという地域特有の要素が交差する地点で発生するエネルギーは特別でした。
御神楽のような活動が持つ意味は、日本全体の経済活動や普遍的な価値観には当てはまらない部分で、限定的だけど生き生きと享受されているのだなぁと思いました。時にそれは娯楽的な意味を持ち、時にそれは地域のネットワークを強める社会的意味を持ち、時にそれは地域にアイデンティティを感じる契機になる文化的意味を持つと思いました。
もちろん世代間や個人間によって、御神楽の意味は異なると思いますが、多面的な意味づけを受け入れながら、どのような形にせよこのような伝統が残っていけたらいいな、と思いました。
今回はここまでになります。また次回も楽しみにしていてください!