私は、現在機織りのお仕事をしていますが、もともとはオフィスで働くOLでした。
今回は、OLとして社会人をスタートした私が、
なぜ機織りのお仕事に就くことになったのか?
「布」への道が開いていった、そもそものきっかけのお話です。
活路が見えなかった時期
私は、大学卒業後、エンジニアリング会社の総務のお仕事に就いていました。
少数精鋭の職場に緊張してしまったり、当時は事務作業があまり得意ではなかったこともあり、悩むことも多く、自分の進路がよくわからなくなっていました。
また、ちょうどそんなころに、祖母の末期がんが見つかったこともあり、生きる・死ぬということを深く考える時期でもありました。さまざまなことから苦しくなっていましたが、なんとか、踏ん張って生きているような状態でした。
そのような時期、時間をつくっては、母と一緒に富士吉田市に訪れていました。
綺麗な水が流れる富士吉田市。
山の麓の土と木の匂い。
富士山からの夜明けの景色。
富士五湖の、しずかにたゆたう美しさ。
これらの景色がずっと、目を閉じても目の前に広がるほど、私の心に残っていました。
時々訪れては、富士吉田市の自然から癒しや生きる力をもらって、また名古屋へ帰るような日々を過ごしていました。
それまでの自分を裁つ
祖母の死後、形見に、祖母が大切にしていた「裁ちばさみ」を譲り受けました。
祖母は、洋裁学校に通って服作りを習得していたので、生前は私に、ぴったりのサイズの服や小物を手作りしてくれていました。
わたしも感化され、自分でもやってみようと布を買ったことはありましたが、
いいはさみをもっていなかったために、布を裁つのに失敗したことがあり、それから布を裁つことすらできずにいました。
素敵な布を、「裁つ」ことで、切ったらもとに戻せない。修復不可能な状態にする。
そんな責任を自分でとることが、怖かったのかもしれません。
でも、祖母が亡くなってから、祖母が愛用していた鉄の重い裁ちばさみが、私のもとにやってきた。
「これはバトンだ」、と思いました。
夏のはじめ、台風がきて外に出られなかった日、意を決して、手元にあった布で、勢いにまかせてワンピースをつくることにしました。
祖母の裁ちばさみを使って、布を、えいっと、ざくざくと切っていきました。
そしてその日のうちに、一着のワンピースをつくることができました。
何か、ずっともやもやしていたものを、やっと裁つことができたような感覚がありました。
弱々しい自分との決別でもあったかもしれません。
これが今の私に続く、小さな一歩だったのだと思います。
それから、どんどん、まるで祖母に背中を押されたように、布への興味が募っていきました。
素材ありき
それから、生地屋さんへ行くことが好きになりました。
ある日、生地屋さんで、かわいい布を見つけて、購入して帰りました。
後日、たまたま、複数のブランドがその生地を使って洋服を売り出していました。どのブランドの洋服も布の魅力に引き立てられていることに気づき、「素材が作り手の創作を左右するのかもしれない」とはじめて実感しました。
このときから「素材が、魅力を決定する」「素材ありき」だと思うようになったのです。
素材にあまり力がないと、それ以上のものをつくるには知恵や技術が必要になる。
それこそがつくる側の腕の見せどころなのかもしれませんが、素材に魅力がある方が、いいものができると思いました。
新鮮な野菜は何もしなくてもおいしい。古くなってしまった野菜は、どうにか人が上手に料理すれば活きるかもしれないけど、新鮮な野菜を上回ることは難しいのかもしれない。
そんな感覚を、布に対しても思うようになったのでした。
富士吉田の織物との出会い
そんな時期、たまたま、富士吉田市の方のブログを開いたときに、「富士吉田の絹織物」の記事を見つけました。
布への興味が高まっていた私は、なんだかとても興味が湧き、そのブログを書いた方に連絡を取りました。すると、その記事で取り上げられていた〈宮下織物(株)〉の現社長に会わせてもらえることになったのです。
その日はちょうど、“日本三大奇祭”ともいわれる、『吉田の火祭り』の日。
富士吉田市のまちが炎の熱気に包まれるのを見ていた私は、これまで停滞してくすぶっていた人生が、火をつけられたように動き出していきそうな予感を抱くのでした。
次回は、はじめて富士吉田市の織物の現場を訪れ、機織りのお仕事に興味をもっていったこと、そして実際に転職し移住するまでのお話です。