3月の富士吉田
3月の富士吉田は、だんだん春めいてきて、ふきのとうが育っているのを見つけました。
庭でふきが育つ場所に、毎年春いちばんでふきのとうがあらわれます。いつも気づくのが遅くて、見つけたときにはすでにお花が咲ききっていることばかりだったけれど、今年は早く気づくことが出来ました。
摘んだ手の指まで、スッとしたふきのとうの香りになりました。春の香りに目が醒めるようです。
ふきのとう味噌をつくることにして、少し茹でると茹で汁がいい色だったので、残った液で試し染めをしました。
布を染めていくと、緑がかった黄色の、春の軽さとほろ苦さを感じるような色になってくれました。
ちょっと渋みもあるのが山菜らしい色だなと思います。
そして茹でたふきのとうはこのあとふきのとう味噌にしました。炊き立てのごはんとよく合って美味しかったです。
庭では、冬を越して息を吹き返し始めたハーブや、毎年咲くチューリップが頭を出していたりして、もう春が来るんだなぁと、よろこばしく眺めていました。
そう思っていたら、たくさん雪が降って、雪が大地を覆っていきました。
雪は春の雪らしく、翌日には太陽の光でどんどん溶けていくのですが、積もった当日は歩くところと駐車場の部分を雪かきします。
土や砂利が見えるまで雪をかいておいたところは、翌日の太陽で綺麗に雪が溶けてくれて後が楽になることをこちらに来てから知りました。雪がふわふわで軽いうちにかいたほうが楽なことも。触らないままの畑の雪は、結構しばらく白いまま残っています。
また雪が溶けかけても、夜になってそのまま凍ると滑りやすかったりしてそれはまた危険なのですが、もう3月は凍結するほどでもなさそうです。
ある程度雪が溶けた頃、また雪がさらにたくさん降りました。
雪国ではないのと、10年以上前に大変な大雪になった(私はまだ移住していなかったのですが)時に比べれば全然大した量ではないですが、東京や名古屋だとこれは大雪と思えるだろうなと思ったりしました。
そしてまた、翌日には晴れたので、どんどん雪は溶けていきました。
いつも木や植物のまわりから雪がとけていきます。木の葉っぱから雪解け水が落ちていくから、その下も溶けやすいのかなと思ったけれど、調べてみると、木が温かいからという理由もあるそうです。
もともと、ほかの場所よりも降っている量が少ないということもあるけれど、それだけでなく、木の幹は地下から水を吸い上げていて、その水は外の空気よりも温かくなるので、まわりの雪が溶けやすくなるそうです。
ほかにも、木の幹の色によって、日光を吸収して温かくなるとか、水分が幹を伝わって根周りの雪を融かしたり、幹の周りに出来る風の流れなども関係しているそう。
木だけでなく、生き生きしはじめた緑の植物たちのまわりの雪もはやく溶けているので、同じなのかなと思います。普段目に見えないはたらきが、雪があることによって可視化されているのも面白いなと思いました。
今これを書いているあいだにも、屋根の雪がとけて落ちる水の音が聞こえています。雪が何にも等しく降り積もって、空間を埋めてみんなひとつになったら、また緩んでとけて。そうして繰り返しながら季節は進んでいくものなのでしょう。
雪が太陽の光を浴びて溶けていったあとの庭の土は、ぼつぼつと模様ができていて、空気を含んで、少しふかふかしています。雪によってほぐされているのかもしれません。
自然はちゃんといい具合に循環していくようになっているのだろうなと感じました。
そんな3月。1月からゆっくりゆっくりペースで継続していた手織りを春分前にやっと完成させました。
2ヶ月、機織り機の上にかかっていた、たての糸が、わたしの日々の無数のよこ方向の糸によって布となって、最後は鋏を入れて、切り離していく。機織り機と一体感のあったものを切り離していくのは、なんとも言えない感覚になります。
かつて織物会社で機織り職人の仕事をしていたとき、サテンなどの反物が織りあがるたび、何本の反物を切り離していったか、もはや総数は数えられないほどですが、切り離すときは、楽しいとも違う、独特な気持ちです。
機械織りのときは、「ふぅ、終わったぞ、さあいってらっしゃい」と締めくくる達成感と、「さて次の織物の調整に入るぞ」という仕切り直しの気合を入れるような気分でしたが、手織りでゆっくり織っていたものだと、へその緒を切るような感覚に近いのかもしれません。
それ自体はもちろん喜ばしいのだけど、いよいよ布として活かされていく世界へ移るための、卒業というのか分離というようなものを、自分の手でジョキジョキと切っていかないといけない。終わりと始まりの責任感を感じるというのでしょうか。
それがあるから、ひとつの布の世界を一度おしまいにして、またまっさらな気持ちで創作を始められるのかもしれません。
そんなことを何ともなしに考えつつ、広げて眺めました。
何年か前に糸を買ってしまい込んでいたものを、こうして形にして昇華できたことも良かったし、こうして手の中で布がつくれるなら、さらにそれを縫うこともできる。やってみたいことがさらに広がっていくのが嬉しかったです。
私の機織り機は昔の日本のものなので、幅が着物のサイズ。一般的な布よりも幅が狭いので、一般の洋服の型紙はそのままでは使えないけれど、狭いところは剥ぎ合わせたりすればいいし、着物リメイクの本などを見ていたら、着物の幅でも色々とつくれそうなので、服地を織って服にしたいなという目標もまたできました。
普段、ますますネットやAIの世界で恩恵を受けている半面、脳が休まらないなと思うことが増えました。そのなかで手織りをしていると、手と、踏み木を踏む足とをせっせと動かしながら、一本、また一本と糸を丁寧に織っていくうち、脳がいい具合に休まってくるのを感じます。頭のなかは無になって、ある意味単純作業なんだけれど、ぼーっとしているのとも違っていて。目の前に、身体の実感と合わせて、今ここの景色が布として目の前にただあらわれてくる。
焦っていたりすると、糸は正直なのですぐに反映されてしまったり、意識しすぎてもちょっと不格好になってきたりするのだけれど、
リズムに乗ってきて、集中したゾーンに入っているようになると、いい具合に自我が薄れて、とても綺麗に織れたりする。
なにかを受動的に視聴する、思考と視覚と聴覚に特化したものとはまた違った手しごとの体験が、意外にもこの時代には合っている気がします。心身のバランスがとれるのかもしれません。
一歩一歩を楽しもうと思います。
3月の草木染め
春直前のこの時期、お花屋さんには春のお花が並びます。まだまだ外は茶色や白の景色が多いので、気分を上げるためにもお花を買ってきます。
家が寒いのと、暖房をつけていないところに飾っているので、冬はいつも購入してからひと月くらいお花がもってくれることが多いです。その間、ずっと見るたび幸せな気持ちになるので、心の栄養だと思っています。
今回は、大きな八重咲のアネモネや、ミモザ、リューココリーネ、ニゲラ、そして桜の枝をいただいてきました。
アネモネとミモザは、昨年の1月にパリへ一人旅したときにも、お花やさんに並んでいて、現地のワークショップでも束ねたお花なので、これまでよりもいっそう、愛おしく感じます。
お花は波動が高いというけれど、本当にそう感じます。飾るだけでも空間が明るくなって、なんてことない日常のなかでも、通り過ぎるたび、家事の合間に、一瞬のほっとする癒しや、変化していく様を見せてくれる。
だんだんと終わっていくいのちは寂しいものもあるけれど、それまでの輝きを見せてくれるお花がやっぱり好きです。水を換えて茎を少しずつ切りながら、長く楽しめるようにとしています。
そうしてだんだん日にちが過ぎてきたころ、今の季節のお花は今しかないので、できるうちにたたき染めをすることにしました。
たたき染めは、海外でも「tatakizome」と表記されていることが多くて、「日本の古くからの染め方」のように紹介されていたりします。きっと世界中で太古の人たちはやっていたのではと思いつつも、歴史のなかで廃れていったものを日本では続けていて、それがまた日本から情報が伝わっていったことで日本語が伝わっているのかなと思っています。
たたき染めの日本の歴史はあまり出てこないですが、日本の大昔の染めは、最初は摺りつけていたという文献を読んだことがあるので、それがたたいて染めるものになるのも自然な気がします。
お花の染めは、一般的には色が退色しやすいとされていて、伝統的な染めには紅花くらいしか使われていないですが、もうすぐ終わってしまうお花のいのちをあたらしい形でまた残して染めるのもいいなと思いました。
リューココリーネもミモザも、はじめてたたき染めしてみましたが、思いがけず色が布にきれいに写ってくれました。たった一輪でも、生きた証や美しさや出会いが布に残ってくれるようです。
飾っていたお花が終わって片づける、その前にこうしてお花たちと共に創作できることはまたゆたかな時間だなと感じました。
右端に写っているのは、ニゲラの葉っぱです。葉っぱも染まってくれました。また季節ごとに、色々と染めてみたいなと思っています。
春分もすぎて、もう春間近。
春になれば、たねまきや苗の準備や、いろいろとやりたいことがたくさん。忙しくなるぞと予感しつつ、だからこその冬の休息がまたありがたくもなるのでした。
春になったら、どうしても嬉しくて浮足立っていくので、今はもう少し落ち着いた時間を楽しもうと思います。
そんなわたしの3月でした。