今回は、自然ゆたかな富士吉田市に住んでよかったな、と思っていることのお話です。
自然の景色
昨年(2020年)、〈宮下織物株式会社〉にて、展示会にむけた見本織をさせてもらえる機会がありました。
私は自分で柄はつくれなかったので、会社オリジナルの柄のデータを選び、使うよこ糸を変えて織ることで、がらっと印象の異なる織物にする試みをしました。
そのとき、わたしのなかでは「白」「静けさ」というテーマをもとに、イメージをふくらませました。
すると、富士吉田市での生活のなかで、五感でとらえた感覚的なイメージリソースがたくさんあることに気づきました。
冬、富士吉田市では、緑も少なくなって枯れた植物が増え、景色に色彩がなくなっていきます。
そして、雪が降ると、本当に白い世界になる。
晴れると、氷点下の世界で、雪が光っている。
空気が澄んで、とっても静かな世界を何度も経験しました。
頬にあたる空気のつめたさ、雪の白さ、空の透明さ、生き物がいない静けさ。
氷や雪の結晶の、キラキラした光。
そんなたくさんの景色と感動が、気づけば自分のなかに蓄積されていました。
そのイメージを織物にしてみたくて、いくつかの見本織を織りました。
冬の銀世界の静けさと、ふかふかした雪のつもった山々を想って織った、山の柄。
氷点下の気温のなかで光る、雪の輝きと、雪のやわらかさを表現したかった、幾何学柄。
また、富士吉田市に住むようになってから、春を心から待ち遠しく思うようになりました。
厳しい冬が過ぎた後に来る富士吉田市の春は、一気に来るのではなくて、静かに静かに、氷がとけてゆくように、日の光がほんのすこしずつ増えていって、春が来る。
そんな雪解けの気配、春霞のようなやわらかい光を感じられる、春の訪れ。
大好きな富士吉田市の春のイメージでも見本織をしました。
柄の合間に、ベールの向こうで光っているような鈍いシルバーを織ることで、やわらかさのなかにも、ピリッと引き締まるような印象にしました。
雪解けを迎えるころのような、春霞のやわらかい光に包まれているような、うっとりした幸せ感のある織物になりました。
自然の景色が心に蓄積されていく
富士吉田市に住んでみると、情報の刺激がかなり少ないと感じるようになりました。
それは、看板があまりなかったり、電車にも乗らない生活なので、吊り広告や電子掲示板みたいなものも目にすることがないからだと思います。
わたしは家にテレビもないので、より公告を見る機会が少ないかもしれません。
そういった、目がチカチカするような情報の波にさらされないかわりに、毎日の生活のなかで、自然のちいさな変化が目にとまるようになりました。
遠くの山の葉っぱが紅葉したあと少しずつ散っていったり。富士山の雪が増えて行ったり、おもしろいかたちの雲が富士山の頭の上にあったり。名前の知らないお花が、静かに咲いていたり。湖へ行くと、白鳥に出会ったり。
毎日、ちょっとずつ違う自然の景色のうつくしさが、わたしのなかで積もっていきました。
そういった景色がわたしのなかでたくさんのリソースになっているんだな、と振り返ってみてきづきました。
それはすごくゆたかなことだな、と思います。
自分の目でみて、自分の心で感じた経験だから、お金で買ったり、だれかにやってもらったりして得ることはできないもの。
たとえば「白」と聞いたとき、アパートの部屋の壁の色をイメージするよりも、富士吉田市の畑がいちめん、雪一色になったうつくしい景色を頭に思い描ける。そのつめたさ、吐く息の白さも一緒に。
これまで生きてきて、その人が見たこと、感じたこと、考えてきたことが、その人を形成していく、と実感するようになりました。
人が話す言葉や、作り出すものは、あえて意図しなくても、その人がこれまでたどって、過ごしてきた毎日によってできている。
当たり前のことだけれど、どんな毎日の積み重ねをして、どんなことを感じて生活しているか、ということに、自分の人生の質というか、責任があると思うようになりました。
わたしはこの6年間、富士吉田市に住んで、春、夏、秋、冬、それぞれのたくさんのちいさな変化に目を向けて、そのなかで生きてきたこと、それらの経験によっていまのわたしができているということに、よろこびとちいさな誇りも感じています。
自然が身近にあって、冬も厳しいからこそ、自然の力を強く感じる地域にいて、よかったことだなと思いました。
今日はそんなお話でした。