FUJIYOSHIDA DIARY MAGAZINE

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宮﨑 博

2023.08.10

富士吉田知ル知ル5「昭和の街を歩いてみたら その1」

富士吉田に来たらまず街歩きは月江寺駅前から

よく富士吉田って昭和の街と言われるが、正確には月江寺駅から坂を下った辺りの「西裏」というかつての歓楽街がメインだろう。

都会から移住してきて気になるスペースがこの「西裏」になる。どこか懐かしい雰囲気とあまりにも絵になるツッコミどころ満載の「トタン」の街。

日本の元号は645年に始まった「大化(たいか)」から始まって、「令和」は、なんと248番目に当たる。そう考えて単純に割ると、元号が変わるペースは約5年半ごとということ。

ちょっと待てよ、「昭和は63年も続いたバケモノ元号じゃないか」。

明治の時代に一世一元の制(1人の天皇に対して1つの元号)という法律ができたためだ。それまでは、「戦争が始まった」「病気が流行った」「江戸幕府の世継ぎが生まれない」「お告げ」などで、あっという間に元号を変えることで世の中を変えようとした。

中でも昭和という最長の年月を費やした時代は、「ハダカ電球」から始まり「パソコン」まで驚くほどのスピードで世の中が変っていった。

僕が赤ん坊の頃、大阪まで電車を見に行ったことがあった。そこでの光景は、蒸気機関車が煙を吐いて走る、その横に新幹線が走る、といった今では想像もつかない景色だった。

大阪の万博では、コンパニオンさんが「無線電話(今のスマホ)」を持ち歩き連絡し合い、道路にはなぜか「動く歩道」なるものがあった。未来はこうなると予想され、それが順番に実現していく時代が昭和だった。だからこの世代の人たちは、将来車が空を飛ぶことやスタートレックの物質移動なんかもそのうちなんとかできてしまうんだろうなと思っている。ところが、「平成」の時代に日本は停滞したような感じがあったのは残念だった。

さて、このとんでもない「昭和」というバケモノの象徴の一つが富士吉田の「西裏」だと思う。

最盛期には芸者さんが250人もいて街のいたる所からは、三味線の音と、ドドイツが聴かれた。まるで今の原宿竹下通りのようにまっすぐ歩けないほどの人の波があった。

西裏の昭和イメージは戦後の復興の時代からさらに盛り上がった。その面影を探して少し街歩きをしてみようと思う。

まず、月江寺駅に降り立った。

駅自体はレトロな感じになっているが、これは比較的最近の改築によるレトロ感を醸したものだった。ただ、階段部分が〜「出た、昭和」。不思議な文様に見える煉瓦の積み方、これは昭和っぽい。

月江寺駅駅前の階段、法則がありそうでない白煉瓦の配列がオシャレ。
 


駅を背にして通りを見ると、右側に「ありました〜、トタンのビル」。

なんと3階建て。

かつて1階の奥には立派なガラス張りで囲まれたDJブースと大きなミラーボールがといった昭和のディスコがあった。2階3階はスナックや居酒屋が数軒。今でも中にはそのままの状態で残されているが現在は階段を封鎖されているために突入できない。

路地側の赤い屋根部分がディスコの入り口。それにしても立派なトタンだ。


かつて僕が「縁起物図鑑」なる書籍を編集する時に取材を協力してもらった、昭和の庶民文化研究家で作家の、町田 忍さんとの飲み屋での会話を思い出した。

「トタンはね、まさに日本人のワビとサビの世界なんだ、だから何か懐かしさが込み上げる」

西裏を目指す入り口でいきなり巨大なトタンに出会えた。

「これは期待大だぞ〜」。

町田さんはこんなことも言っていた。

「よく、美術品や遺産というものは、美術館などに保管されて文化財などになる。しか〜し、昭和の生活遺産は、庶民生活の中で使われた商品や道具としてどんどん消費されて、生活に溶け込んでいく。とても大切な遺産なのに失われてしまう。だからこそ現存するものを大切に保管し、記録すべきなんだ」と。

そう考えると、いきなり駅前にトタンビルがある月江寺駅前からそのまんま保存しなくてはならないのではないか。

少し、足を進めてみた。

「あった〜、これこれ、かつて使われていた道しるべ的なトタン地図」

よく見ると、かなり多くのバーや料亭、美容室、食堂などが確認できる。この地図を参考に歩いてみたいと思う。

壊れかけのビルの壁に未だ残る地図。まだ現存する店もあるが多くは失われているようだ。


今も堂々と営業しているカメラ屋さんがあった。「見たからに昭和だな〜。かっこいい」。

ここで掘り出し物を発見!

「コダック〜〜、皆さん知ってる?」

コダックってアメリカの会社でかつては写真フィルムの最大手だった。世界中のほとんどの写真フィルムはコダックかフジカラーだった。

「おお〜っと、フジカラーくんもいるじゃないか」

写ルンです、というめちゃくちゃ売れた商品の看板が現存しているぞ。

「すげ〜、これ文化財もんじゃないの、さりげなく置いてあるけどね」


「ハア、ハア、ハア〜、ここまでで、すでにお腹いっぱい」

でもまだまだ先は長いぞ。

カメラ屋さんの正面にまたまた発見!

「学生館 パル」だって、なんだろう?

学生服屋さんなのか、飲み屋なのか、さっきのトタン地図によるとスナックもしくは寿司屋さんといった案内だったはず。

「なになに、スクーラー・ハウスって書いてあるぞ。やっぱり学生服屋さんなのかな」。

とにかく、気になるので正体は宿題にして次に進もう。


周辺にはトタンの美術品のような景色が至る所に見られるのも楽しい。


川の手前を左折してスナック街に入ってみた。

どうやらこの辺りは今も栄えていて営業している感じがする。どの店も代替わりして最近のものかもしれない。昭和っぽいけどなんか違う感じがした。

それでも街並みは昭和だ、よ〜く探してみると時代の面影がどんどん押し寄せてくる。

「ありましたよ〜、富士山と昭和〜」

誰かのお宅の塀だがかっこいい。なんと富士山型に覗き窓が作られている。これこそ正に昭和の遺産だ。


今回の街歩きはここまでにして続きはまた今度としよう。歩いたのはわずか数百メールだけなのにこんなにもおもろい、まだまだ西裏の入り口だというのにね。

戦後の昭和は大量生産、そして大量消費にみんなが勤しんだ。しかし今は、リサイクルの時代であり、サスティナブルの時代である。

「生活していく中で、よ〜く考えて、一体何を大切にしていかなくてはならないのか。何を残して活用していかなくてはならないのかが大切である」。

富士吉田は、この点をものすごく考えさせられる街だ。移住者が異文化を運び込んでくるのも大切だが、そうではなくて、この街に溶け込んでみて、何ができるかをいくらでも考えられる所が最もいい点だと思った。そして残っている遺産を最大限活用して次の世代に渡すことができればいい。

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宮﨑 博

編集者・出版プロデューサー

神戸市出身、大手出版社社員を経て20年前に2拠点生活を開始。16年前より富士吉田市に完全移住し、リモート生活を実践。現在、富士山に一番近い出版社の編集統括に就任中。

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