藤崎 仁美

2024.08.05

番外編「私とフジとファブリックと」

夏になると、フジファブリックと富士吉田と染織物との出会いに想いを馳せることが多くなります。

なぜかというと、フジファブリックのフロントマンだった志村正彦さんのご出身が富士吉田で、ちょうどお誕生日の時期になると、市内の防災無線の夕方のチャイムが、いつもの放送からフジファブリックの曲のチャイムに変わるからです。

以前は、機織りの音をバックに、工場の入口からチャイムを聞いたこともありました。

富士吉田に引っ越してきてから、もう9年目。

この9年、色々なことがあって、名古屋でOLをしていた自分のことが前世のように思えてくるほど、ずいぶん遠くまでやってきたなぁ、と思います。

なぜ、いま私はここにいるんだろう?と思い返すと、その起点はフジファブリックでした。

ただ、私が富士吉田に移住することになったのは、フジファブリックのファンだからこの街に住みたい、と思ったのではなくて、人生の流れに乗ってどんぶらこ、と行きついた先に、機織りのお仕事があったからです。

そんな起点となった、富士吉田とのご縁のはじまりは、フジファブリックのライブイベント、『フジフジ富士Q』でした。それが14年前のちょうど7月でした。これも7月。

これは私がはじめて参加したフジファブリックのライブでした。

そのときはまだ私は大学生で、これから自分の人生がどうなるかも分かっていないし、それどころか自分というものも全然定まっていなかったころ。あのときには、まさかその5年後にハタオリ(ファブリック)のお仕事のために移住するとは思いもしませんでした。

どんな経緯だったか思い返してみると…

富士吉田を知ってから何年後かに、地域の方のブログを拝見してちょうど七夕の記事を読み、そのなかで富士吉田の絹織物のことを知りました。(これも7月で、その記事には明見湖が写っていたのを覚えています。)

その記事を読んだ瞬間、興味が湧いて連絡させていただき、のちに働かせていただくことになる織物会社の方に会わせていただける運びとなりました。

そして見学をさせてもらったときに、はじめて機械織機を見て、その迫力にびっくりしてしまって知恵熱のようになったのでした。

その日は富士吉田に宿泊しながら、宿で頭を冷やしつつ、織物の美しさに感動したこと、織物に興味はあるものの、そもそも染め織りについて何も知らなさすぎる自分にも気づいたのを今も覚えています。

ちょうどその日よりも少し前に、京都の染織家の方の美術展をたまたま観光中に拝見することがあり、その展示のなかに、染め織りの学校を始められたという内容がありました。

また同時期に、NHKのドキュメンタリーでもその学校のことが取材されていたのを見たことがあったので、京都に学校があることは知っていました。

その富士吉田滞在の夜に、その学校の存在をふと思い出して検索してみたら、ちょうど、翌年の入学願書提出締めきりがその翌日でした。

まだ間に合う!と思って学校に電話をして、当日応募用紙を受け取りに行っても良いことになり、翌日、富士吉田から京都まで新幹線で向かい、願書を受け取り、(少し期日を伸ばしてくださって)翌年の染め織りの半年コースに応募し、合格して。翌年、4月から9月ころまで、名古屋に住みながら、週末には京都に通う生活が始まったのでした。

奇しくも、その富士吉田への移住が決まる前に通っていた、京都の染め織りの学び場も、「志村」さんというお名前の素晴らしい先生方でした。(フジファブリックとはまったく関係のない志村さんです)どちらの志村さんも、レジェンド・天才と呼ぶにふさわしいような方々です。

不思議なものですが、志村正彦さんのおかげで富士吉田に来て、京都の志村さんご一家によって自然観や草木染め、そして経糸と緯糸を織り込む織物を体験させていただくこととなったのでした。人生とは不思議なものだなと思います。

そうして富士吉田の志村さんと、京都の志村さんとによって導かれた未来を自分なりに咀嚼しながら進んで、ここまでやってきたのでした。

ちなみに、染織物の学校では、織りに向かうにあたって、これから織るものの題をつけて、そのイメージを発表する会があったのですが、私はちょうどそのときの自分の人生になぞらえて、「夜明け」をテーマにしていました。

ちょうどそのころ、富士登山をしたときに見た夜明けのような、すべての境界をこえた先にみえるものをみたい、そんなことを一生懸命語って、題は「地平線を越えて」にしたのでした。(過去の、「ハタオリのあるくらし」にも記事を書いたことがあります)

実はフジファブリックの楽曲の中に「地平線を越えて」という曲があり、曲へのリスペクトと共感があって、さりげなく題にさせてもらったのでした。

「地平線を越えて」という曲は、個人的に特に好きな曲のひとつなのですが、私の生き方のスタンスの理想でもあり、また、実は機織りソングにも思える曲だと勝手に思っています。

わたしの手織りのテーマが「富士山から見た夜明け」だったこともあり、ひと織り、ひと織りしていく水平の線が、地平線を見つめて越えていくような感覚でもありました。

「左か右かどちらでもいいか」「機械的であれ 単調であれ」

「はじからはじまでスピードを落とさないでいこう」

もともとはまったくそういう意味の歌詞ではないと思いますが、機織りの工場では、杼が右へ左へとどちらにも留まらず行ったり来たりし、ずっと水平ラインを保って一定の速度で布が織られていくので、なんとなく、地平線を越えていくように思えなくもないような気もする。

工場にいたときの織機もわりとこれくらいの速度だったこともあり、一定のリズムを落とさず淡々と綽綽と、冷静に進んで行くのがなんとなく重なり、この曲は機織りに合う曲だな、と一人で密かに思っています。

当時は、手織りをしながら、頭のなかで流れてくることもあり、妙に機織りに合うなと思ったものでした。

今改めてよくよく聞いてみても、ドラムの音などが、工場で聞こえてくる機械が振動する音となんだか似ているようで、曲と一緒に織機が回っていてもおかしくないような気さえしてくるのです。(ちょっとマニアックすぎて、分かってくれる人がいるかどうかわかりませんが‥)聞けば聞くほど癖になる、奥深い名曲です。

そうして、その織物を織りあげて、学校が終了した直後、富士吉田で機織りのお仕事をするお話が出てきて、その年末には転職のためにお引越しをして、そこからわたしの富士吉田ライフが始まりました。織りきることで、夜が明けたのかなと思っています。

名古屋の生活で好きだったものもあったけれど全部一旦手放して、あまり感情的にならずに、身一つで後ろを振り返らずに進んでいく、当時のわたしの気持ちを前に向かせてくれるようなテーマソングになっていてくれたのかもしれないと思います。

あらためてまとめてみると、

『フジフジ富士Q』のために富士吉田に来たことから始まって、

東と西の志村さん方に導かれて染め織りと出会い、

きづけばハタオリ(ファブリック)のお仕事をし、

その間に結婚して、苗字に「フジ」という音が入り、

昨年は駅前のお花屋さんで働かせていただいたりして(今は卒業していますが)

今は、この富士の土地の植物を、富士の水で染めさせてもらっている。

そんな不思議でありがたいご縁に、手を合わせたくなります。

この7月には、フジファブリックが来年2月に活動を休止されるという発表もありました。

当時、志村正彦さんの亡き後、バンド存続を決意して前を見て進み続けた3人の勇気や背中や曲に、どれほど勇気をもらい支えられたか知れません。

これまでフジファブリックと出会ってから、紆余曲折ありながら、音楽とともに歩んできた日々と恩恵が思い浮かびます。

フジファブリックの音楽に本当に支えられてきたこと、そして不思議なご縁に導いていただいて今があることに、ただただ感謝するばかり。そんな今年の夏となりました。

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藤崎 仁美

1989年名古屋市生まれ。大学ではフランス語を専攻。大学在学中、〈フジファブリック〉のイベントのために、はじめて富士吉田へ訪れる。卒業後は愛知県のエンジニアリング会社で総務を経て、社内異動によりNX(3DCAD)の講師を務める。
そのころ、仕事のかたわらで週末京都の学校に半年間通い、草木染めや手織りを体験。染織や自然と親しむ暮らしがしたいと思うようになる。そして、2015年、〈宮下織物株式会社〉へ入社するために富士吉田市へ移住。未経験から、ジャカード織物の機織り職人として6年間勤務し、2022年春に退職。
現在は、染料植物を育てて草木染めをしたり、植物と親しむ暮らしを楽しんでいる。

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